対話の奇跡なしでは人間は成り立たない

対話の奇跡なしでは人間は成り立たない

これは一般論だが、対話、コミュニケーションを成功させるために最も必要なことは、両者が「対等」であり、両者の関係が「対称」であることである。立場の差や、上下関係、役割、ルール、その他、両者の対話を非対称にする要素があればあるほど、対話は形式的なものになり、実質をともなわない。

たとえば、社長と社員がビジネスのアイデアについて対話するときに、それぞれが、「社長」、「社員」という立場を離れず、社長が自分が最終的には決定するということを意識して、社員が社長の方が偉いという前提で議論をしても、深まらないし、高まらない。両者が対等、対称になって始めて深まる。

学校でも、先生、生徒という立場で話していても、結局はそれまでのことになる。人生の哲学的なことや、社会のあり方についての深い問題については、それぞれの役割を離れて、ひとりの人間として語り合うのでなければ、そもそも対話をしていることにはならない。

世界には、非対称性が満ち溢れている。(格差と名づけてもいいかもしれない。)今日、理をつくし、情に根ざした対話が難しいように見えるのは、それだけ、世界の非対称性が増しているからで、これでは、人間が持たない。非対称性を超えて、人間として対等に向き合う対話のスキルが重要となる。

科学の現場では、究極の対称性が理想とされる。教授か、大学院生か、著名な研究者か、その立場に関係なく、アイデアについて、その当否、データとの整合性を、対等に話し合う。(実際には、どっちが偉いとか、そういうことが気になるのが人間だろうが、少なくとも理想としては、完全な対等性がよい)

対話の対称性の一つの現れは、「・・・先生」とか、「・・・知事」とか、「・・・官房長官といった肩書ではなく、お互いをファーストネームで呼び合うような、そんな気分であろう。対称な、深い対話は、本来、人間と人間の間にしか成立し得ない。立場を離れて、人間として考え、感じる時間帯が必要。

対称な、対等に向き合う対話は、時間がかかる。お互いに前提にしていること、ルール、形式主義を超えて、本当に感じていること、背景になっていることをテーブルに持ちださなくてはならない。それは、現代においてはひとつの奇跡かもしれないが、対話の奇跡なしでは人間は成り立たない。